誰でもロンリー
「あなたは孤独ですか??」と問われ
「はい、孤独です」と答えれば少なからず心配されるであろう。
けれど誰しも日々の中で人知れず孤独を感じて過ごしているんじゃないのかな。
あなたが孤独を感じる時、寂しさを感じる時はどんな時なんだろう。
友達や恋人と別れる時。
一人でご飯を食べる時。
誰かに裏切られた時。
自分が社会の中で必要とされていないと感じる時。
きっと人それぞれに孤独を感じる時がある。
それは結婚をしている、大切な誰かがいる(恋人という意味以外でも)、どこかに属している、ということとは全く関係のないところで。
だから我々は孤独から逃れるために何かに縋り、愛を求める。
愛に満たされれば、一時孤独を忘れるが、ふとした時にまた孤独を感じ、打ちひしがれる。
その繰り返し。
我々は誰かに肯定してもらわなければ生きていけない、弱い存在なのである。
私は、8月に3度目の肺気胸になり、1週間ちょっと入院していた。
前回までの入院の際にはSNSで入院したことを発信した。
はっきり言うと私は家族以外の誰かにお見舞いにきてほしかったのだ。
けれど今回の場合3度目の入院で慣れていたから、入院期間中に会う予定にしていた人だけに軽く伝えただけだった。
お見舞いに来てくれなくても全く問題ないと思っていた。
しかし、ただただ安静にするだけの時間の中でどうしようもなく寂しくなってしまった。
私がいなくても世界は平気で回る。
あぁ自分って一体何なんだろうって柄にもなく一人ベッドの上で考えていた。
そんな折、今年4月にタイのゲストハウスで出会った世界を旅する友人から突然連絡がきた。
その友人とはゲストハウス主催の飲み会?で過ごしただけの仲だったけれど、強く印象に残ってる人だった。
「私は今エジプトにいて、来週からカナダに行くよ。洋貴くんは元気ですか?」
そういう簡単なメッセージだった。
けれど私はそのメッセージに救われた。
私のことを覚えてくれてる人がいる。
たった一夜過ごしただけなのに(こう書くと違う意味に?笑)、こうやって自分のことを思ってくれる人がいる。
自分は病院の狭いベッドの上にいるのに、その友人は片やエジプトにいる。
あぁ、忘れていたけど世界は繋がっているんだ。
そして私と誰かはこんな風に繋がっているんだと心の底から感動した。
更には入院しなければ遊ぶ予定だった友達がお見舞いに来てくれるというではないか。
涙が出るほど嬉しかった。
入院・手術なんて平気とLINEでは言っておきながら全然平気じゃなかった。
いや、入院と手術自体は本当に平気だった。
一人が寂しかった。
友達を待つ間、サンタを待つ子どものようにソワソワ、ワクワクしていた。
まさか病人とは思えない笑顔と大きな声だったらしい私と、まさかお見舞いに来たとは思えないほど笑っていた友人。
仮にも病院なのに、居酒屋にいるみたいに過ごした楽しい時間を私は一生忘れない。
日々の中で思いやりを忘れずにいれば(忘れがちなんだけどね)、自分だけではどうしもない時、悩んだ時、困った時、不思議と必ず救いの手が差し伸べられる。
それは誰かの何気ないような言葉だったり
映画のくだらないような1シーンだったり
何でもないような一文だったり
一見ゴミのようなものだったり。
それを救いととるか何も感じないかは自分の心次第。
あなたの小さな優しさも誰かの孤独を癒しているかもしれない。
そうやって私たちは孤独ながらに、皮肉にも孤独だからこそ誰かと繋がっていられるのではないか。
大人はみな寂しさを抱えている。大人は孤独でいいのだ。
終わらない夏の終わり。
私は季節の中で圧倒的に夏が好きだ。
夏が本当に一番好きで、だから秋が来るのがすごく嫌だった。
だけど夏が過ぎる瞬間、秋の気配を感じる瞬間、あぁ大好きな季節が終わるのかと胸が痛くなると共に秋の魅力にも気付けるようになった。
夕日の色が一番輝いて見えるのも、食べることの喜びが増すのも秋。
ジリジリと刺す日差しから毎日元気をもらっていた弾む心が段々と落ち着いていく。
季節や天候によって人間の気持ちも変わるのだなぁと面白く感じる。
四季それぞれの美しさの変化に気付く感性を持っていたい。
そしてもう二度と戻らない今年の夏を思いながら、次の夏を待つ心を大切にしたい。
褒めるな危険
いやー、前回の更新からえらい空いてもうたわ。
以前にインスタネタなんて書いてるけど今となってはインスタ辞めたし、
時の流れに身を任せあなたの胸に寄り添いたいね。
ブログ書くの久々すぎて冒頭から、抑えきれない気持ちはドコへ行くこともなく戻ることなんて出来ないですが、この暴走にお付き合いいただけたら嬉しい限りです。
ほな本日のテーマ!!じゃじゃん!!!!
“褒める”でっせ。
結論から言うな。
ワシ褒められるんめっちゃ苦手やねん。
頼むから褒めてくれんなーーーーーーって思ってるねん。
それは照れ隠しとか謙遜とか自分のことを卑下してるからとかとちゃうねん。
こんなん言うたら人でなしとか言われそうやけど勇気を出して言うわ。
褒めてワシのこと脱がそうとしてるんやろうけど、どんなけ褒めたかて脱がへんで!!!
ワシそんな尻軽ビ〇チちゃうねん!!!!!
例えば、上司に頼まれた仕事を終えたと報告したときに
「お、平嶋くんもうできたん?さすが早いね!」
って褒められるとするやん??
そこには
「じゃあこの空いた時間で脱ごっかグヘヘヘヘ」ってことやん???
そん時のワシの気持ちは
そうやって言葉巧みに色んな人のこと褒めて脱がしてきたんやろけどな、ワシは脱がへんで!!!
そんな尻軽ビ〇チちゃうねん!!!!!
とまぁ冗談はこのへんまでにして、すっごい大げさにひどい言い方をするとこの(特に仕事で)褒めるって行為には
「褒めてえぇ気持ちにさせてもっと早く仕事させよう、あわよくば脱がそう。」
そういう意味が含まれてるって感じるから好きちゃうんよ。
善意だけで、本心から褒めてくれる人がいることも重々承知の助です。
それでも素直に受け止められないの。褒められると機嫌悪くなります(笑)
私、性格ねじ曲がってます。
じゃあ何も言われなくてもいいかと問われればそうじゃなくて
「ありがとう」「ほんまクレイジーやな」「助かったよ」「糞ビッチ」
こんな言葉だけでいいです。
けどこの言葉を言われるために頑張る訳でもないし、言われなかったからといって不貞腐れたりする訳でもない。
それでもやっぱり言われたら嬉しいし、脱いでもいいかなって思えんねん。
だからワシを脱がせたい人は、どうぞ魔法の言葉
「ありがとう」
「君がいてくれて本当よかったよ」
「ずっと変わらないでしょ私たちBitch Friend」
と言えば喜んで脱ぐで??
命の名前
私は名前を大事にしている。
それは自分の名前も人の名前も。
大学に入学してから驚いたことの一つが、名前の呼び方が急に苗字から下の名に変わったことだ。
私も小学生の頃から男女共に友達のことを下の名前で呼ぶことはあったけれど、それでも基本的には苗字やあだ名で呼んでいたし、自分のことを“ようき”と呼ぶ友達は数人だった。
それが大学に入る途端“ようき”のオンパレードに、今まで“ひらちゃん”だった私は違和感を抱いたのであった。
今でも覚えてる話。
大学一回の頃は一人でいることが多く、一人がかわいそうという思いから話しかけてくるお節介さんがいた。
似非友A「なぁなぁ、いっつも一人でおるよな。友達にならん??」
ひらちゃん「(絶句・・・)」
A「名前なんていうん?」
ひら「ひらしまようき」
A「じゃあようきって呼b」
ひら「ひらちゃんで!!!!!!!!!!!!!!!」
ってくらい気安く下の名前呼ぶなって思ってた(笑)
今あの時の自分の気持ちを思い返すと、下の名前で呼ばれるのが嫌だったわけではなくて、関係性も成り立ってない人に下の名前で呼ばれることが嫌だったんだと思う。
下の名前で呼ぶ=本当の友達
みたいな考えがどこかにあったんだろうな。
けれど今の私は、初対面の人にもいきなり下の名前で呼ぶこともしょっちゅうだ。
それは、昔の自分のように誰かを不快にさせてるかもしれない。
それでも下の名前で呼ぶのは、呼びたいと思うのは、名前は親が一生懸命考えてくれた命の名前だと考えるようになったから。
名前はその人をその人たらしめるもの。
誰もがその名前のように生きていくんじゃないのかな。
「その名前、あなたっぽくないよね」とはじめは感じていても、その人と付き合っていくなかで
「あなたの名前はやっぱりこれしかないね」って思うようになる。
名前と人とは繋がっていて、名前から影響される力ってきっと大きい。
だからそんな思いのこもった、その人だけの名前を大事にしたいし口にしたいのである。
“洋貴”と書いて“ようき”。
初めて私の名前を見た人が“ようき”と読んだことは今までに一度もない。
私の両親はかなり真面目で、正直面白みがあるとは言えない。
そんな真面目な親が、“洋貴”を“ひろたか”や“ひろき”ではなく、“ようき”と名付けたことが信じられず、また本当に感謝している。
私は洋貴という名を死ぬまで、いや死んでも大事にしようと思う。
そして名前負けしない、“ようき”な“ようき”として日々過ごそうと思う。
※よう‐き【妖気】
あやしい気配。何か不吉なことが起こりそうな雰囲気。
の“ようき”じゃないよね?お父さん、お母さん?
大人になる
大人になったなぁと感じるときはいつだろう。
そもそも大人ってなに??大人になるってどういうこと??
って疑問は消えないし、いくつになってもきっと答えなんて出ないんだろうけど、「少しは大人になったのかも」って感じる一つの指標は
今まで気付かなかった歌詞の意味に気付いたとき。
まさにNO MUSIC NO LIFE!!!!なLIFEを生きている私。
朝起きた瞬間から音楽をかけ、出かける際も家出る前から爆音ガンガン、公共交通機関でも人目をはばからずリップシング、リップシングじゃ事足りず踊りだし、小鳥も花も空もみんなお友達~☆とディズ○ープリンセスも真っ青になるほど歌い舞い人気のない道さえもステージに変え、今日も私はラララ歌うの~♪♪(ミュージカル)、音楽のない世界ならいっそ私を殺してくれませんか~♪♪(急に演歌)と本気で思っているくらい音楽が好きなのである。
そんな音楽好きな私だが、その時の状況や心境で今まで気付かなかった歌詞の意味にふと気付いたり、腑に落ちたりすることがある。
この前シャッフルでMONGOL 800の“あなたに”が流れハッとした。
「人にやさしくされた時 自分の小ささを知りました」
私は人に優しくできているんだろか、人の優しさに気付ける心を持っているんだろうか、とちょうど思い悩んでいた。そして
「あなた疑う心恥じて 信じましょう心から」
と続く歌詞に、ずばり自分の小ささを指摘されたような気がしたのだ。
この曲を初めて聞いたのは15年以上も前で、これまでに沢山聞いたり歌ったりしていたにも関わらず歌詞の本当の意味に気付けずにいたんだよね。
逆に歌詞を全く理解していないのに、いい歌詞と思い込んでた曲も数知れず。
そのうちの一つが、中学生のとき大流行したサスケの“青いベンチ”。
恋の意味も知らず(未だに知らんけど)、好きな人もいなかったくせに
「鬼いい歌~まじいい歌詞~サスケやばい~」
と友達と言ってたけど
「この声が枯れるくらいに君に好きと言えばよかった」
ってえらい薄っぺら~~い、やっす~~い歌詞やがな!!!!(サスケファンの方すみません)
声枯れるくらい好きって言うためには
す゛き゛ーーーーーーー!!!
き゛み゛の゛こ゛と゛か゛す゛き゛ーーーーーー!!×30
こんくらい大声で繰り返し叫ばな声枯れへんで、サスケはん???
そんな叫ばれたら、いくら美男子(美女)やとしてもドン引きやで???
ほんで君は来るだろうかって心配してたクラス会で元カノ(元カレ)に
「今だから言えるけどさー、あいつから気が狂ったように好きって大声で叫ばれたことあってさー、あんときはまじ恐怖感じたwww別れて正解ww」
って集まる度に酒の肴にされるのよ??
だから
「この声が枯れるくらいに君に好きと言えばよかった」
って後悔してはるみたいやけど、あんた声が枯れるくらい好きって言わんくてほんまよかったんやで??
あぁ、私は青春の歌さえも揚げ足とるような大人になってしまったのか。
#の書き方教えます~後半~
Hi!! My friends!!調子はどう??
前回は#の書き方で
① 誰がみてもおもしろいと思ってもらえるようにすること
すなわち特定の人にしか分からない#は書かない方がいいということをお伝えしたね。
(誰が見てもおもしろいと思ってもらえることなんて不可能に近いんだけど!てか無理!!)
後半の今回は
② 伝えたいことをなるべく絞ること
を書きたいと思うの。
Instaをアップするときって、色々書きたくなるよね。
その日あった面白いこと、予期せぬ出来事、自分が感じたこと。
けれどそれを全部書いちゃうと結局何を伝えたいかが曖昧になると思うの。
言葉って長すぎると読む気が失せるから。
深く心動く出来事があり、それをInstaにアップするため一生懸命考え、あなたの想いと熱がこもった長い#、実は流し読みされていますww
なので面白い(分かりすい)記事を書きたいなら
一番伝えたいことを軸に少ない#で!!!
前回の記事で具体例として出した同期飲みネタでご説明。
#同期飲み
#職場アルアルで盛り上がる
#急に出てきた唐揚げ
#辛いことあるけど同期がいるから頑張れる
#同期love
この投稿で伝えたいことって結局は
同期が好き!!
ってことだよね。
ならいっそのこと#を羅列せずに
#同期love
という一つだけにしぼった方がその日一緒に飲んだ同期も他の人からも
分かりやすい記事、素敵な記事になると思うの。
この投稿だと読み手が
「あぁ、この人はいい同期に恵まれたんだなぁ」とか
「きっとこの会では励まされたり励ましたりしたんだろうなぁ」とか
勝手に想像してくれはず。
想いのこもった言葉には、自分が思っている以上に含蓄のある表現になる。
またInstaのいいところは、言葉少なくとも投稿者の気持ちを写真が勝手に表現してくれるところもあんじゃないかな。
後は自虐ネタも効果的。
前回チラッと出てきた#適当コーデ とか書いてるのに超オッシャーな画像を載せてるお洒落さんも#の書き方ひとつで
#適当コーデ
#とか言いつつばっちりキメてますw
#全然適当じゃないコーデ
と自虐を入れる事で私の様なひねくれ者からも反感を買わず、むしろ面白い投稿として嫌味なくお洒落Instaをアップできるのでは??
(そもそもお洒落さんはお洒落な更新をしたいので大きなお世話である)
#キートン山田風に読んでね
とまぁ色々書いたけど、SNSなんて結局は自分が書きたいように、表現したいように書くのが一番。
おい!!ひらちゃん!!
あたかも
人気インスタグラマーが#作成の秘訣教えます☆
みたいにこのブログ書いてるけど、あなたInstaフォロワー40人よww
(そんなショボいフォロワー数でよくもまぁこんな記事が書けたものだ。)
#キートン山田風に読んでね
(前回と今回の記事を踏まえたうえで、ひらちゃんさんのInstaを見てみると
① 誰がみてもおもしろいと思ってもらえるようにすること
② 伝えたいことをなるべく絞ること
を忠実に無視し、身内ネタに溢れ、無駄に長い#を多用しているなんて私は言えやしない、言えやしないよ。クックックック。)
#野口さん風に読んでね
#の書き方教えます~前半~
Hi!! My frinds!!調子はどう??
今やSNSの代表格Instagram。
私もやっているのですが、インスタと言えば#〔ハッシュタグ](以下#と表記)が特徴的ですよね。
私事で真に恐縮ですが、なんならこのブログには私事しか書けないのですが、私の#を面白い、狂っている、意味不明というお褒めのお言葉を多数(4人くらい)頂いたので、僭越ながら#を面白く書くコツをお伝えしようと思います。
#適当コーデ とか言いつつばっちりキメてる画像載せているお洒落さんとか、#スタバの新作(#ニアチューポーズ)とかそんな記事をアップしている人、そしてこれからもそんなオッシャーな画像を載せたい人は今すぐここから離れてください。
さもないとお洒落さんから芸人枠に変わってしまう可能性アリ(知らんけどw)。
自分が#を作る上で意識して大事にしていることは大きく二つあります。それは
① 誰がみてもおもしろいと思ってもらえるようにすること
② 伝えたいことをなるべく絞ること
です。
まず①誰がみてもおもしろいと思ってもらえるようにすること
で気を付けるべきことは
身内ネタに走りすぎないこと!!
例えばその日遊んだ人との記事をアップしようとすると、多くの人はその日の面白かった出来事などを#に書きますよね。
その時に大事なのはその遊んだ人しか分からない#は極力使うべきではないということ。
もちろんSNSなんてコミュニケーションツールの一つだし、その日一緒に遊んだ人が見て面白いとおもう#はその日の思い出をより良いものにするかもしれません。
けれど他の人がその記事を見ても、「ふーん、楽しかったのね」で終わりますよねw
具体的に#使って比較してみましょう。
ある人が会社の同期と飲み会したとしましょう。多くの人は
#同期飲み
#職場アルアルで盛り上がる
#急に出てきた唐揚げ
#辛いことあるけど同期がいるから頑張れる
#同期love
みたいなことを書く人が多いですよね。
正直おもしろくはないですよねw
職場アルアルは他の人からしたら分からないし、唐揚げなんてその場にいなければ意味不明の極地(笑)
そこでちゃんひら式#
#場所は違えど同じ空の下で頑張っている同期
#同期がいれば曇り空さえ晴れにしてしまう
#同期がいれば何も怖くない一人じゃないよ
#同期もみんな空の下
#絢香かよww
#絢香風にネチコく熱唱して読んでね
身内ネタを消しただけで書いてる内容はほぼ同じですよね。
ちゃんひら式を面白いと感じるかは各個人の感性次第ですが、更新者の同期以外にも分かる内容かなとは思いますがどうでしょう。
後半へつづく
#キートン山田風に読んでね